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あの時の私がいる! 澤田道子

<2015年 第44号>

 友だちから、「藤棚新聞 6 月号にあなた が載っている!」と言われて知りました。 見ると『昔と今』の記事の中に、まりつ きをしている女の子の私がいました。私は昭和 20 年 6 月生まれなので、まりつきの写真は昭和 30 年代の前半です。


右側が澤田さん


 ベビーブームになって、昭和 20 年代の稲荷台小学校では2部式授業でした。少し前までは、 子どもが多くて入りきらなくて、半分は富士見台小学校にも通っていたのです。学校の給食は、 コッペパンと脱脂粉乳におかずが 1、2 品ありました。コッペパンは、 今売られているものより大きかったような気がします。脱脂粉乳は、 好きではありませんでした。学校を休むと友だちがコッペパンをも ってきてくれました。書道やそろばん塾などにこども達が通ってい ました。


 父は自分の姉が経営しているそば屋、今の松鶴を昭和の初めに継 ぎました。私も小学校6年生の頃からお店を手伝うようになりまし た。当時の出前はたくさんの「せいろう」と「どんぶり」を肩に山 積みにして、自転車で運んでいたのです。両親は店が忙しいの で、運動会、父母会や学芸会などの行事には一度もきてもらえませ んでしたが、かわりに親戚がきてくれました。



 遊びは、女の子はまりつきやゴムとび。 男女いっしょでは缶けり、かくれんぼや羽 つきのほか、おはじきや縄跳びもよくやっ たように思います。さらに男の子はベーゴ マ、メンコや馬とびなど外でよく遊んでい ました。おこづかいは、10 円をもらって駄 菓子屋に行きました。アイスキャンデーは 5 円でした。こうし て私は幼いころから、 こころがつながった 商店街で育って、働 いてきました。現在 もニコニコ商店街の先のそば屋「松鶴」で 一所懸命に頑張って働いています。


(稲荷台小学校、澤田さん提供)


 この商店街の道は平成の初め頃に幅を広 げて、地域の人たちが楽に歩けるように歩 道を作り、車道は交通安全のために蛇行さ せて一方通行にしました。しかし今は、当 時の狙い通りに賑やかになっているとは言 えません。


 これからはニコニコ商店街はじめ5つの 商店街、そして地域の皆さまと協力して、 商店街を元気にしていくために知恵を出し 合って活動していきましょう。



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