<2017年 第52号>
井伊直弼は西区に住んでいる人たちだけでなく、多くの人たちに知られ愛されています。一方で大河ドラマでは「おんな城主直虎」の放送が始まり、井伊家のつながりが改めて注目されています。
彼は1815 年、第13 代藩主・井伊直中の十四男として彦根城で生まれました。兄弟が多く庶子のため、養子の口もなく、父の死後17歳から32 歳までの15 年間を300 俵の捨扶持の部屋住みとして過ごしました。この間、国学を学び埋木舎(うもれぎのや)と名付けた邸宅で世捨て人のように暮らし、熱心に茶道を学んで茶人として大成します。さらに和歌や鼓、禅、槍術、居合術を学び、あきらめずに精進し高い技量を身につけて、その風流に生きる姿から「チャカポン(茶・歌・鼓)」とも呼ばれていました。
ところが1846 年、第14 代藩主で兄の直亮(なおあき)の世子であった井伊直元が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者になります。
ついで1850 年、直亮の死去を受け家督を継いで第15 代藩主となります。そして黒船がきた幕末期の江戸幕府にて大老を務めました。彼はもともと尊王攘夷派でしたが、アメリカとの交渉で国内が混乱するとして勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行しました。さらに、強権をもって吉田松陰ら国内の反対勢力(約100 人)を粛清しました(安政の大獄)。しかしそれらの反発を受け、1860 年に水戸藩士と薩摩藩士18 名によって暗殺されました(桜田門外の変)。その後、幾多の経緯を経て掃部山に銅像として立っています。
一方で直弼の祖先に当たる女城主井伊直虎は、後年苦労して元の許嫁の子である直政の後見役となります。しかし、最近になって京都の井伊美術館で新資料が見つかり、女性とされてきた直虎が男だという意見がでてきました。その意見というのは、正確には「井伊谷の女性領主『次郎法師』は確かに実在したが、尼の彼女が『次郎直虎』と名乗り、男のように花押(サイン)までしたか疑義がある」(読売新聞)というものです。
直弼は直虎から15 代目に当たります。直虎は井伊谷(浜松市)の生まれで、直弼とはおよそ280 年の差がありますが、掃部山の直弼の銅像に向き合うと直虎との間に不思議なつながりを感じます。彦根にもあるという直弼の像にもお会いしたいですね。
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